2011年5月7日土曜日

私に見えた範囲のこと

少しみたことをすべてのように話すことはあまりよいことではないのだとは思う。しかし、何か出来るのであればという気持ちで記事にしてみる。


4月17日に千葉の飯岡、5月3から5日まで東北地方の沿岸と津波の被害を受けた地域を回ってきた。


飯岡は千葉県にありながら大きな津波の被害にあった地域ではあるが、東北地方の激甚被災地の報道が多くなされているために話題にのぼりにくい地域である。



私が訪れた時はすでに津波の被害にあった家屋の瓦礫の撤去はおおかた終わっており、それらの瓦礫が港や学校などの施設に分別された上で集積されていた。










海水中のプランクトンが付いた瓦礫は時間が経つと衛生上良くないために定期的に消毒が行われているとのこと。









漁船が被災したこと、出荷制限などが当時はあったことなどから漁は行われていないようであった。しかし、被災した漁船の修理が急ピッチで進められており、船を出せる日も決して遠くはないのかもしれない。



飯岡で一番被害を受けた市街地の海沿いから防波施設を見る。テトラポッドが積まれていたであろう場所には大きな穴が空いていた。




堤防の上を走る自転車道のアルミ製の柵は何もなかったかのようにきれいにもぎ取られていた。波の力で一気に流されたのか、変形したものが危険だったために撤去したのかはわからない。









海に面した家屋は、海から一軒から二軒分は大きく被害を受け、取り壊されているものが多かった。S造は一階部分の内外装を持って行かれながらも、構造としては立っているものが多かったのは印象的だった。砂っぽい地盤のせいか、上下水などの地下設備はが地上に露出しているパターンが多かった。








地震の後に付けられたと思われる海抜表示が街の至る所に貼ってあった。
少し離れた九十九里沿いの街は飯岡と同じかそれ以下の防波設備しかもたない場所が多かったにもかかわらずまったく被害を受けていない地域が殆どだった。それらを分けたのが津波の高さであり、それらの原因が地形と震源の兼ね合いだったとするならば、頻発地域以外での津波被害の予測は困難であると言わざるを得ないのかもしれない。いつも賑やかな休日の銚子の姿もその日はなく、それがいわゆる自粛か風評被害によるものであるならば今回の災害が人的物的被害にとどまらない複雑なものであるということを示していたのだろう。




続いて
5月3日の未明から東北の被災地を回ったこともこの場に少し書かせていただく。
父方の祖父の実家が仙台であることや、一昨年の8月にサークルの合宿で仙台から石巻、気仙沼、陸前高田、遠野などを通って花巻まで自転車走ったこと、中高時代に何度か鉄道旅で訪れたことがあることもあり、ある程度記憶がある土地だっただけに、どうにかしても被災後の状況を見ておかねばいけないと3月11日以降強く感じていた。
少し遅くはなってしまったのかもしれないが、この期間の訪問となった。


山側から市内に入り、徐々に高度が下がるとともに市街地への被害が顕著になってくる。泥が入った建物の掃除をしていたり、停電で信号機が動かなくなっていたりという姿が目に入って来る。



大島への船は運行を再開しており、自衛隊車両や民間人の車両を搭載し、比較的高い頻度で運行をしていた。




港に面したRCの立体駐車場はところどころに損傷を負いながらもしっかりと立っていた。手すりの損傷から2階の途中までは津波が来たことが伺える。





海辺の鉄骨造の建物は津波の力を示すように歪んでいた。







千葉県警が警備に当たっていた。気仙沼に限らず、今回非常に多くの他県の警察官や警察車両を被災地で見た。
福岡から輸送支援のトラックが駆けつけていた。県外ナンバーのクルマは僕らが行った時期はとても多く、組織的な支援やボランティア、見物など多くの人が東北に入っているのだという印象を受けた。







側溝にはまだ水が残っており、海に面した地域の復旧は海から遠い被害の比較的小さい地域に比べ先になることを如実に示していた。



一本入った地域の様子。立っている建物も多いが、多くの内部は大きく損傷を受けている。





地盤沈下が顕著で、車道と歩道部での沈下量の違いが顕著に出ている。





古い木造家屋の場合、波によってもぎ取られるような被害を受けているものも多かった。







一見外から見れば大きな被害をうけていないような建物でも内部は大きく被害を受けていた。












気仙沼で夜を明かしたとき、夕方のお風呂時にお世話になった銭湯の亀の湯さんがどうしても気になって訪れた。ご夫婦は無事だということでほっとした反面。大きく損傷を受けた銭湯を見てとてもやるせない気持ちになった。在りし日のここをもう一度尋ねられたら良かった。




気仙沼に関しては、市街地がリアスの奥のほうに伸びていることもあり、ある程度海抜のある地域とそうでない地域の間での被害の差が大きいと感じた。建物が残った地域では生活の再建に向けての動きが着実に進んでいるように見えた。




続いてその後に陸前高田に訪れた。





以前高田松原の道の駅で食事をとった記憶があり、訪れることでなにか被害の把握ができるものかと考えたが、町のほぼ全域が文字通り消え去ったようなその姿からは、以前の町の姿と重ね合わせることすらできなかった。
気仙沼などのように復旧作業が盛んに行われている様子はあまりなく、自衛隊なども捜索、警備、炊き出しや風呂の造営など殆ど生命を維持することに当てられているように感じた。これほどまでに広域に圧倒的な被害が広がってしまえば復旧復興へのビジョンを立てることすら現時点では険しいのかもしれない。
以前訪れた時はとても穏やかでのどかな町に感じたが、湾の窄みの奥に位置し、低い地域に居住地域が分布していたというその地理的条件が今回の大きな被害を生んでしまったのかもしれない。



翌日は石巻へ。ボランティアをする機会を石巻スポーツ振興サポートセンターの松村さんにいただき、短い間だけでも参加させていただいた。

松村さんのBlogはこちら。http://blog.canpan.info/suport2007/




小さいクルマに4人分の作業道具と着替えを積むと結構ギュウギュウに。




今回作業をさせていただいたお寺は海の近くに位置しており、建物自体は津波で壊れはしなかったものの、境内やお堂の中に大量の土砂や瓦礫が入っていた状態であった。
今回はボランティアがそれを掻き出し、お寺の前に集め、それを地元の建設業者の方々や自衛隊がユンボなどで回収するという流れであった。
始めは愕然とするような状況であったが、大人数での作業ということもありみるみるうちに泥や瓦礫は取り除かれて行った。
現時点ではボランティアの受け入れ態勢が不十分でないという側面もあるかもしれない。しかし、未だに人手が圧倒的に足りていない事も事実ではあろうし、被災地に宿泊しないなどの被災地域へ負担をかけない方策をとりさえすればもっと盛んに行うべきなのだと強く感じた。





その日は訳あって仙台までクルマで向かう必要ができたので、海側のルートを通って石巻から仙台へ向かった。





何度も訪れたことのある松島ではあったが、ところどころ損傷を受けながらもなるべく早く平常に戻ろうと躍起になっている様子であった。観光客もそこそこにはいた事がとても安心させた。






それでも街道を通る普段はあまり見ない車たち。





宮城の沿岸部は松島の近くの一部を除いて多くの場所で津波の被害を受けたようで、頻繁に水没した田畑や店舗住宅などを目にした。
翌日は石巻スポーツ振興サポートセンターの松村さんらが主催する子供向けのイベントのお手伝いをさせていただいた。
まだ瓦礫の残る中瀬でのイベント。元Jリーガーの選手やJFLソニー仙台の選手によるサッカー教室やご当地ヒーローのショーなどが行われ、多くの子供連れで賑わっていた。













サッカーボール一つ一つにメッセージを書く。
私たちは子供達が危険な方へ行かないように見張ったりすることが大きな仕事だったのだが、いつしか子供たちと一緒にサッカーをしたりしていた。彼らから本当にたくさんの元気をもらえた。













石巻では復興というものに対して大きな希望を見せていただいた気がする。地元、応援問わず多くの人々が作業に当たって復旧に向けて突き進んでいるというとても力強い動きを感じられたということや、直接子供たちと触れ合えたことが大きく影響しているのかもしれない。


今回ちょっとだけ、いろいろなところを見てきて感じたのは月並みながら実際にその場で見ないと分からないことばかりだということであろうか。
どの地域でも抱える事態に差がありすぎるのである。
何らかの政策決定をするにしても大元のグランドデザインからそのまま下ろしていくだけではきっと問題解決にはあまりにも不十分で、下から提言をしボトムアップを政策決定の中から決して欠いてはいけないのだという事だけはぼんやりと感じる。
いろいろと感じていることをすべて形にするのは今は不可能ではあるが、なるべく早い時期に報告会や何らかの形で人前に出せるものにしていけたらと思う。