2011年12月31日土曜日

2011年

思えば、残り時間あと二時間を切った今から自分の総括をしてももう遅いとはおもうけれども。それでも、ちょっとだけ。




2011年。

年のはじめからいろいろなことが本当によく変化し続けた一年だった。
身の回りの環境は大きく変わり、精神的になによりも大きな支えを得た。

2月に大叔母が亡くなった。とても優しく、誰かのために何かをすることが大変好きだった人だった。思えば僕の趣味や思考の一部は確実に彼女の影響も受けていたのかもしれない。

3月頭には初めて香港に上陸した。広東語が喋れればなと強く感じたが、北京語や英語をとびとびしながら行うコミュニケーションもまた新鮮で、あった。去年の中国の時にも感じたのだけど、北京語を第一言語としない人との北京語での会話は、ネイティブとの会話に比べて幾分か楽だなと。どこか、英語圏の小さい子供と接するときに感じるプリミティブなコミュニケーションの感覚に近いのかもしれないけど。
東日本大震災があり、その直後から僕の住む東京も否応なくその影響を帯びていった。到底今まで実際に起きると想像すらしていなかった事象の連続は、それまでの自分が積み上げてきた価値観に銃創のように穴をあけ、そこを埋めようとする中で多くのことと新しく、もしくは再び向きあう事になった。

一つ学年が上がり、デザインスタジオで比較的全力で課題に臨む経験が出来たのもまた、大きな財産にはなったのだろう。

夏に、高校時代からゆっくりとプランニングをしてたヨーロッパへの旅行をする。これまで家族でしか行ったことのなかったヨーロッパも、文字通り自分たちで走ればまた全然違う側面をのぞかせてくれた。都市計画好きになってて、建築史ちょっとでもやっててよかった。
夏が終わりに向かうにつれ、喜びながら、怯えながら、想定していた将来の意外な近さと、厳しさを強く感じながら秋へと向かう。

ワダヨコでの活動を本格的に始め、右も左もわからない状態ながら色々とさせてもらう。
来年からはよりやるべきことがクリアに見えてきているだけに、頑張らねば。


いろいろな人に色々な機会をもらいながら、いろいろなことに手を出すことが出来た、恵まれた一年だったのだろう。

色々な僕に直接的な関わりのある事象、そうでもない事象がたくさん起きてきた一年であった。そのスピードや勢いに流されないように必死にばしゃばしゃやっている一年ではあったが、来年はもっともっと主体的に先へ先へと進めていけたらとおもう。いろいろなことを大切にしながら。


支えてくれた人々と、2011年という一年にこの場でも感謝を。
来年からもどうかよろしくお願いいたします。

2011年12月16日金曜日

余呉へ伝奇を求めて

少し前のことだけれども、忘れないうちに書いていこう。




今年の夏、日本建築史演習という、実際の日本建築史上重要な建築物を先生と回る授業を受講した。
集合は奈良であったため、どうやって行くことも出来たが、どうせならバスではない行き方をしたいと期間ギリギリであった青春18きっぷを使って行くことにした。朝早く家を出るとだいぶ時間に余裕が出てしまうので、せっかくだったら今まで言ったことのない場所に寄り道してみようと考え、久しぶりに伝奇をテーマにした散歩をしてみようと余呉に行くことにした。


民話とかが好きな人だとここでピンとくると思うかもしれないが、余呉は三保の松原、天橋立と並ぶ天女伝説で有名な地で、昨年の居住単位の課題で民間伝承に興味を強く持って(課題のアプローチとしてはあんまりにもお粗末ではあった)以降、一度訪れてみたいと思っていた地であった。



米原から新快速でしばらく行くと余呉の駅につく。写真の通り、小さな商店が少しある以外は駅のまわりにはあまり集落と言える感じのものもなく、静かな感じてある。



のどかな田んぼが続く風景の中にそれほど大きくない湖が忽然と現れる。山に囲まれた地形上、湖には霧が立ち込めやすく、伝奇が生まれた場所といわれればすんなりと納得はできてしまうほどにどこか幻想的な印象も与えている。




湖のほとりに天女が羽衣を掛けたという伝承の残る柳があった。丹後のものは物語の設定は少し違うけど、三保の松原の方は確か松に羽衣を掛けていたので、そこは相違点なのかもしれない。




ふらふらと歩いていると天女の像やいろいろなものがあったが、ふと僕の目を捕らえたのはすっと田んぼに降り、優雅に翼を広げる鷺の姿であった。
なんとなくだけれども、その優美な姿に異界からの女性の姿を重ねたのかもしれないと思ってしまう。




山と湖に囲まれるように佇む集落。

あたりを巡り、目星をつけていたビジターセンターまで行くが、どちらかと言うと余呉湖での釣りを楽しむための施設であったようで、駅近くの余呉湖観光館まで戻る。私がついた頃はちょうど日も傾き変えた夕方で、閉まりかけの中をお願いして簡単に資料を見せてもらう。おいてある資料は伝奇全体を大まかに紹介しつつ観光案内をしているようなものが多く、これからの散歩のために地図を一部いただく。

余呉の羽衣伝説には他には見られない面白い特徴がある。
天女が降りてきて水浴びをし、それを覗き見ていた男がその隙に天女の脱いであった羽衣を隠してしまい、その後そのまま天女が男の妻となり子をなし、天に帰っていくという大筋は極めてよくあるものと同じなのではあるが、余呉のものではその男と天女の子が旅中の和尚に見出され、都に行き、後の菅原道真になるというなんともドラマティックな展開を持っているのである。

もらった地図を参考に、幼き日の菅原道真が天に帰った母を思い、その上で泣いたとされる夜泣き石という石を見に歩いて行ってみようと考えた。

いつの間にか夕日に包まれて山吹色になる稲穂を見ながら、あぜ道を歩く。すると、先程観光館に入るときにすれ違い、挨拶をしたおじいさんに追いつく形で再会してしまった。またお会いしましたといった具合に少しばかり会話をしていると、「羽衣伝説をしっているかい?」とおじいさんの方から話を振っていただいた。おもわずうれしくなり、余呉に来た経緯などを話すと、「それならうちにいいものがあるからきなさい」といった具合に近くに止めてあった軽トラに乗せてもらい、ご好意に甘える形で集落の中にあるおじいさんの自宅へ連れていってもらうことになった。
話をしていると、どうやらその方の家は代々余呉に住んでおられて、その方も木之本や余呉で小中学校の先生を長年努められ、余呉町の教育長にまでなられた方ということでだった。そして、その仕事の傍らで余呉の持つ伝承を研究し、未来へ遺そうとしているというとのことであった。
羽衣伝説と渡来人と近くの神社の関わり、白鳥の飛来コースなど様々な話をしていただき、最後には日も殆ど落ちかけたころに夜泣石などを軽トラで案内していただき、最後にはお勧めの食堂まで連れて行っていただいた。しまいにはその方の著作を頂いてしまうなど、非常に良くしていただいてしまい、ただただ恐縮であった。

食事を終え、すっかり暮れた湖沿いの道を歩くと、西の方に浮かび上がる山の影と、湖の水面にただよう集落の明かりがただただ幻想的で、どこかぴりりと背中を刺激されるような鋭い美しさを持っていた。
消雪パイプもしっかり整備されている程には雪深い地でもあるそうで、冬にはこのあたりも雪で覆われてしまうのだという。
いつかまた、ゆっくりと何日もかけてめぐってみたいと心から思うとても魅力的な土地だった。

2011年11月2日水曜日

PNDと情報公開

GARMINが新しいPNDを日本国内で出すらしい。

【GARMIN nuvi 3770V】VICS対応・薄さ約9ミリ・マルチタッチ…生まれ変わった新世代PND | レスポンス (テクノロジー、カーナビ/カーオーディオ新製品のニュース) 

今までになくコンパクトでシンプルそうな外観と、ちゃんと準天頂衛星みちびきの補正信号を受信できる最新の測位性能、まだ国産据え置き上級機でも採用の少ないマルチタッチなどカーナビとしての必要な機能を大体揃えている。

実際この夏、ヨーロッパでGARMINのナビをたっぷり使う機会に恵まれて、その実力には大いに助けられた。国をまたいでもしっかりとデータベースは対応し、測位性能もダッシュボードにポンと置いているだけなのに問題なく、住所入力はどんな所でも対応、速度規制や交通規制の情報を逐一表示し、交差点ではしっかりと拡大図を示し、スピードカメラのあるエリアではしっかりと注意を促すといった具合に走ることに必要な情報に関しては非常にかゆいところに手が届く仕様であった。

去年我が家の新車にカロッツェリアの楽ナビの上位機種を載せた。ミュージックサーバーやDVD再生機能を始めとしたAV機能や3Dビューなどとにかくてんこ盛りな仕様であったが、スマートな使い方を覚えるまでそれなりの時間がかかったようにも感じられた。基本的なナビの性能自体は直接比較をしたわけではないが、少なくともGARMINに比べて家の楽ナビのナビゲーション能力がそれほど優れているとは思えない。優れてるとしてもそれはナビ自体の性能ではなく、VICSビーコンからの情報によるリルート処理の有無ぐらいだろう。直感的に使いやすいか否かの問題のほうがはるかにこの手のデバイスでは重要なように感じられた。
こういった性能の差を見るに、車上荒しの多い欧州で据え置きは持ち出しの容易なPNDに比べて不利な事は大いに関係しているとはいえ、そもそもPNDに比べてずっと高価な据え置きナビを購入する必要そのものがないということが共通認識としてあるであろうことから、欧州ではPNDが市場の主流になっているのだとも考えられる。日本でのHDDナビの標準的な価格帯は10万円台なのに対して、GARMINのPNDはむこうでは100から200ユーロで買えるのだから。オーディオもきょうびHDDサーバーなんて車内にわざわざ置かなくてもみんなiPodなどのDAPをAUXなりドックなりでオーディオに直付けして使う訳だからいよいよ据え置きのメリットはなくなってくるのだろう。事実、欧州の自動車雑誌などのスペック表には多くの場合iPodと連携可能なカーオーディオを装備しているかどうかの項目がある。これらのことからも国内のカーナビという分野は相当に孤立して競争力のないプロダクトを惰性で作っているのではないかという懸念を抱かざるをえない。

近年はVICSだけでなく、モバイルネットワーク回線を利用したスマートループなどのサービスも定着しつつあり、NAVITIMEのネットワークナビなどクラウド前提のナビゲーションシステムも国内で登場しつつある。実際スマートループは東日本大震災の時にホンダと共同でスマートループ搭載車の通行実績をGoogleマップ上に表示するシステムを公開したりと、それが従来の渋滞回避のためだけのシステムではない事を提示し始めているが、それと平行で進めているスマートフォンナビの開発などによりそもそもこれまで進化をして来なかった据え置きナビ自体の存在価値を自ら壊し始めているともいえる。実際スマートフォンの普及によって一番影響を受ける業界の一つがカーナビであるとは前から言われてきたわけではあるし、PNDのような安くて代替が容易なデバイスならともかく、据え置きナビのような高価で交換も難しいものは相当早く存在を疑問視されても仕方ないとは思える。


二年ぐらい前からグーグルは海外の都市で渋滞情報をマップに表示するようになっている。おそらく都市の警察や道路行政的な部署がグーグルと連携して、彼らに渋滞情報を提供しているのだろう。スマートフォンでルート検索をかけるとこの情報を考慮して結果を出してくれる。東京も渋滞センサーやTシステムのような渋滞を把握する設備を高密度で持っているはずであり、それらの情報をもう少しそういった民間企業と共に活用していけば良いのではないかとは常に思う。もちろん、そういった情報をすべて公開することは危機管理の観点から見れば間違いなく危険ではあると思うが、だからといって全て封鎖するのではなく、公開する情報の範囲を自分たちで積極的に策定し、危機管理自体をもう一度自分たちの手の中に収めることが結果として危機管理体制を能動的に作り上げる一つの有効な方法になるのではないかと常に思う。
とかく、最近東京電力やオリンパスが説明責任を果たしていないとして批判の槍玉にあげられることが多いが、開け広げる範囲の設定がきちんと上手にハンドリングできていないということ、そしてそのハンドリングのマズさを全部非公開にして隠すことが最も批判の対象にはなっていると思う。そういった意味では道路行政のそういった情報公開・共有へのスタンスにもそのハンドリングのマズさは見えているような気がしてならない。


今後ナビゲーションシステム自体がスマートループのような集合知システムになるのか、綿密なトップダウン情報を元に判断を行うシステムになるのか、もしくはその双方を統合して各ナビゲーションシステム同士が連携してトラフィックを分散させるなどの制御を行うようになるのかは分からないけれども、ここ10数年で多くの乗用車のインパネのインテリアデザイン据え置きナビ用に変えるにまで至ったカーナビのスタイルも終わりが近いように感じてしまうのは私だけではないはずである。

2011年10月29日土曜日

再会

大分長い間投稿をして来なかったので、久しぶりに更新をしたくなった。

そろそろなにか日々考えたことを整理して振り返りつつ歩くこともまた大切なのかもしれないと思い、ちょっとづつ書いていこうということにした。

携帯電話を新しくした。
これまで6年半にわたってドコモの携帯電話を使っていたが、去年の秋にXperiaを導入して以来、そのパケット料金の高さと、スマートフォンの普及に起因するであろう回線速度低下に悩まされ続けてきた。
第二回線にAUがあるのでとりあえずいざというときの電波の心配はしなくていいということもあり、E-mobileに乗り換えることにした。

機種はもちろんEricsson miniことS51SE!これと、通話定額オプションがタダなことが今回の乗り換えを大きく後押しした。

なんたってソニエリのゲテモノマシンは大好きですからね。
これが歴代の相棒達。

左からPremini-S、SO902iwp+、SO-01B、Ericsson mini。
ソニエリのちびさんたちへの愛情なら負ける気がしない。

つい先日、ソニエリがソニーの完全子会社になるというニュースがあった。この携帯が最後のソニエリ機になるのではないか思うと少し寂しくもある。



ちょっと使った印象を。

基本的にはインターフェースはAndroidユーザーなら自然と受け入れられる感じのもの。四隅のショートカットはいかにもソニエリらしいインターフェースで、僕はとても良いと思う。
確かに他のスマートフォンを持っている人は使用中に落としてしまうことも十分考えられるほど小さい。その点は僕にとってはまさに求めていたPremini以来の感触ではあるのだけれども、正直合わない人にはまったく合わないだろうなと。。
動作は快速。arc、acroと同じプロセッサを積んでいるせいか今までの無印ペリアとは隔世の感すら。

回線速度は今までFOMA回線で使ってきた人間にとってはまず文句のないものと言える。都心の電車を乗り継いで帰っただけなので正直通信エリアを確かめる事はできているとは言えないが、今までとてもストレスに感じられたターミナルや満員電車内での通信速度には驚かされた。

Pocket wi-fiはやはりそれなりのスピードだけれども、ブラウジングやドキュメント作成には不満がない程度の安定性と速度。

とりあえず夜に受け取ってきて最初に触ってみた感じがこんなところか。。。


何よりも感じるのは一番最初に使った携帯電話であるPremini-Sが帰ってきたようにすら感じてしまう、愛らしい相棒だということだろうか。

2011年5月7日土曜日

私に見えた範囲のこと

少しみたことをすべてのように話すことはあまりよいことではないのだとは思う。しかし、何か出来るのであればという気持ちで記事にしてみる。


4月17日に千葉の飯岡、5月3から5日まで東北地方の沿岸と津波の被害を受けた地域を回ってきた。


飯岡は千葉県にありながら大きな津波の被害にあった地域ではあるが、東北地方の激甚被災地の報道が多くなされているために話題にのぼりにくい地域である。



私が訪れた時はすでに津波の被害にあった家屋の瓦礫の撤去はおおかた終わっており、それらの瓦礫が港や学校などの施設に分別された上で集積されていた。










海水中のプランクトンが付いた瓦礫は時間が経つと衛生上良くないために定期的に消毒が行われているとのこと。









漁船が被災したこと、出荷制限などが当時はあったことなどから漁は行われていないようであった。しかし、被災した漁船の修理が急ピッチで進められており、船を出せる日も決して遠くはないのかもしれない。



飯岡で一番被害を受けた市街地の海沿いから防波施設を見る。テトラポッドが積まれていたであろう場所には大きな穴が空いていた。




堤防の上を走る自転車道のアルミ製の柵は何もなかったかのようにきれいにもぎ取られていた。波の力で一気に流されたのか、変形したものが危険だったために撤去したのかはわからない。









海に面した家屋は、海から一軒から二軒分は大きく被害を受け、取り壊されているものが多かった。S造は一階部分の内外装を持って行かれながらも、構造としては立っているものが多かったのは印象的だった。砂っぽい地盤のせいか、上下水などの地下設備はが地上に露出しているパターンが多かった。








地震の後に付けられたと思われる海抜表示が街の至る所に貼ってあった。
少し離れた九十九里沿いの街は飯岡と同じかそれ以下の防波設備しかもたない場所が多かったにもかかわらずまったく被害を受けていない地域が殆どだった。それらを分けたのが津波の高さであり、それらの原因が地形と震源の兼ね合いだったとするならば、頻発地域以外での津波被害の予測は困難であると言わざるを得ないのかもしれない。いつも賑やかな休日の銚子の姿もその日はなく、それがいわゆる自粛か風評被害によるものであるならば今回の災害が人的物的被害にとどまらない複雑なものであるということを示していたのだろう。




続いて
5月3日の未明から東北の被災地を回ったこともこの場に少し書かせていただく。
父方の祖父の実家が仙台であることや、一昨年の8月にサークルの合宿で仙台から石巻、気仙沼、陸前高田、遠野などを通って花巻まで自転車走ったこと、中高時代に何度か鉄道旅で訪れたことがあることもあり、ある程度記憶がある土地だっただけに、どうにかしても被災後の状況を見ておかねばいけないと3月11日以降強く感じていた。
少し遅くはなってしまったのかもしれないが、この期間の訪問となった。


山側から市内に入り、徐々に高度が下がるとともに市街地への被害が顕著になってくる。泥が入った建物の掃除をしていたり、停電で信号機が動かなくなっていたりという姿が目に入って来る。



大島への船は運行を再開しており、自衛隊車両や民間人の車両を搭載し、比較的高い頻度で運行をしていた。




港に面したRCの立体駐車場はところどころに損傷を負いながらもしっかりと立っていた。手すりの損傷から2階の途中までは津波が来たことが伺える。





海辺の鉄骨造の建物は津波の力を示すように歪んでいた。







千葉県警が警備に当たっていた。気仙沼に限らず、今回非常に多くの他県の警察官や警察車両を被災地で見た。
福岡から輸送支援のトラックが駆けつけていた。県外ナンバーのクルマは僕らが行った時期はとても多く、組織的な支援やボランティア、見物など多くの人が東北に入っているのだという印象を受けた。







側溝にはまだ水が残っており、海に面した地域の復旧は海から遠い被害の比較的小さい地域に比べ先になることを如実に示していた。



一本入った地域の様子。立っている建物も多いが、多くの内部は大きく損傷を受けている。





地盤沈下が顕著で、車道と歩道部での沈下量の違いが顕著に出ている。





古い木造家屋の場合、波によってもぎ取られるような被害を受けているものも多かった。







一見外から見れば大きな被害をうけていないような建物でも内部は大きく被害を受けていた。












気仙沼で夜を明かしたとき、夕方のお風呂時にお世話になった銭湯の亀の湯さんがどうしても気になって訪れた。ご夫婦は無事だということでほっとした反面。大きく損傷を受けた銭湯を見てとてもやるせない気持ちになった。在りし日のここをもう一度尋ねられたら良かった。




気仙沼に関しては、市街地がリアスの奥のほうに伸びていることもあり、ある程度海抜のある地域とそうでない地域の間での被害の差が大きいと感じた。建物が残った地域では生活の再建に向けての動きが着実に進んでいるように見えた。




続いてその後に陸前高田に訪れた。





以前高田松原の道の駅で食事をとった記憶があり、訪れることでなにか被害の把握ができるものかと考えたが、町のほぼ全域が文字通り消え去ったようなその姿からは、以前の町の姿と重ね合わせることすらできなかった。
気仙沼などのように復旧作業が盛んに行われている様子はあまりなく、自衛隊なども捜索、警備、炊き出しや風呂の造営など殆ど生命を維持することに当てられているように感じた。これほどまでに広域に圧倒的な被害が広がってしまえば復旧復興へのビジョンを立てることすら現時点では険しいのかもしれない。
以前訪れた時はとても穏やかでのどかな町に感じたが、湾の窄みの奥に位置し、低い地域に居住地域が分布していたというその地理的条件が今回の大きな被害を生んでしまったのかもしれない。



翌日は石巻へ。ボランティアをする機会を石巻スポーツ振興サポートセンターの松村さんにいただき、短い間だけでも参加させていただいた。

松村さんのBlogはこちら。http://blog.canpan.info/suport2007/




小さいクルマに4人分の作業道具と着替えを積むと結構ギュウギュウに。




今回作業をさせていただいたお寺は海の近くに位置しており、建物自体は津波で壊れはしなかったものの、境内やお堂の中に大量の土砂や瓦礫が入っていた状態であった。
今回はボランティアがそれを掻き出し、お寺の前に集め、それを地元の建設業者の方々や自衛隊がユンボなどで回収するという流れであった。
始めは愕然とするような状況であったが、大人数での作業ということもありみるみるうちに泥や瓦礫は取り除かれて行った。
現時点ではボランティアの受け入れ態勢が不十分でないという側面もあるかもしれない。しかし、未だに人手が圧倒的に足りていない事も事実ではあろうし、被災地に宿泊しないなどの被災地域へ負担をかけない方策をとりさえすればもっと盛んに行うべきなのだと強く感じた。





その日は訳あって仙台までクルマで向かう必要ができたので、海側のルートを通って石巻から仙台へ向かった。





何度も訪れたことのある松島ではあったが、ところどころ損傷を受けながらもなるべく早く平常に戻ろうと躍起になっている様子であった。観光客もそこそこにはいた事がとても安心させた。






それでも街道を通る普段はあまり見ない車たち。





宮城の沿岸部は松島の近くの一部を除いて多くの場所で津波の被害を受けたようで、頻繁に水没した田畑や店舗住宅などを目にした。
翌日は石巻スポーツ振興サポートセンターの松村さんらが主催する子供向けのイベントのお手伝いをさせていただいた。
まだ瓦礫の残る中瀬でのイベント。元Jリーガーの選手やJFLソニー仙台の選手によるサッカー教室やご当地ヒーローのショーなどが行われ、多くの子供連れで賑わっていた。













サッカーボール一つ一つにメッセージを書く。
私たちは子供達が危険な方へ行かないように見張ったりすることが大きな仕事だったのだが、いつしか子供たちと一緒にサッカーをしたりしていた。彼らから本当にたくさんの元気をもらえた。













石巻では復興というものに対して大きな希望を見せていただいた気がする。地元、応援問わず多くの人々が作業に当たって復旧に向けて突き進んでいるというとても力強い動きを感じられたということや、直接子供たちと触れ合えたことが大きく影響しているのかもしれない。


今回ちょっとだけ、いろいろなところを見てきて感じたのは月並みながら実際にその場で見ないと分からないことばかりだということであろうか。
どの地域でも抱える事態に差がありすぎるのである。
何らかの政策決定をするにしても大元のグランドデザインからそのまま下ろしていくだけではきっと問題解決にはあまりにも不十分で、下から提言をしボトムアップを政策決定の中から決して欠いてはいけないのだという事だけはぼんやりと感じる。
いろいろと感じていることをすべて形にするのは今は不可能ではあるが、なるべく早い時期に報告会や何らかの形で人前に出せるものにしていけたらと思う。