2011年3月15日火曜日
今まで無事でいること
一昨年の夏合宿で走った陸前高田の空
ここ数日あまり外出をしないで過ごしている。
地震と一連の災害で被害を受けた方々の無事を祈る。
甘っちょろくも今回の地震の時に何をしていたかを少しだけ。
タジミくんと彼の中古車選びを手伝うために車で千葉の八千代に向かい、そこで地震に遭った。
最初は、緩やかな横揺れが来、「揺れるのはプレファブの土台のせいかな?」なんて事を話していたら少しづつ揺れが大きくなり、これはいけないとばかりに机の下に入った。起震車でしか体験した事のないような強い揺れであった。どうやら千葉の北部でも震度5か6程度の揺れがあったようであった。近くの標識やコンビニの看板は大きな音を立てて揺れ、走っていたスクーターはパンクをしたかのようによろけながら止まった。
直後から電話は通じず、安否確認をしようにもどうしようもない状態になり、事務所のラジオに耳を傾ける。東北を震源とした極めて大きな地震であったというニュースが午後の緩やかなFM局のトーンに似合わない緊迫したトーンで流れ始めた。
そそくさと家路についたはいいが、東関道も京葉道路も首都高も止まっているという状態であったため、まだ流れている下道を使って東京を目指した。ナビのテレビから流れてくる映像を見てだんだんとこの地震がこれまで体験したことのない大きな規模の災害なのだという実感が沸いて来た。
途中念の為にガソリンを補給したり、ATMで現金をおろしながら都内を目指す。
夕方の6時あたりで千葉県から都内に入る。このころになると止まった常磐線で通勤をしていた人々が6号線を長い列をなして下る姿が見られるようになってくる。ここで、もう一度給油とコンビニでの物資補給を行う。このころになるとスタンドに徐々に車の列ができはじめ、コンビニでは帰宅する人々が殺到したせいか食料は殆どなかったようだった。そんななかでタジミはなんとか肉まんとフランクフルトとお菓子、更には2Lペットを調達という非常に素晴らしい行動を取る。
その後秋葉原でタジミはモリモトの家に泊まるために下車。そのままなんとか都心へ入ろうとするも、都心の道路は悲しいほどにまったく進まない。なんとか246方面を目指して平河町まで出るも246もまったく動く気配がない。仕方なく裏道に入るもここも動かず、四谷駅前に出れたのは日付が変わった午前1時。徐々に疲れも見えてきて運転の精度も落ちてくる。このあたりで燃えている気仙沼の映像がテレビで流れる。一昨年の夏合宿で野宿をした気仙沼の街並みがこうなったとはにわかには想像できない。あそこで会ったいろいろな人はどうなってしまったのかと考えたくもなかった。
あまりにも情けないがここで事を起こすことはリスクだけを増やしてしまうことなのだと自分に言い聞かせ、とりあえずそこから帰宅する事を選択した。
四谷より西は土地勘が多少なりともあることから、裏道と大久保通りを通って阿佐ヶ谷、そのまま2時半過ぎに自宅へ着いた。気が張っていたせいか眠くはならなかったが、いろいろな事に対する情け無さとこれからどうなるのだろうという釈然としない不安でクタクタではあった。
時間はかなりかかったとはいえ、暖かく、水や食料にも困らないという極めて恵まれた状況にいた事は本当に幸運であったとしか言いようがない。
途中でコインパーキングに車を放棄して、歩くなり電車で帰るなりするという方法もあったのかもしれないし、そちらのほうがトラフィックの円滑化や事故のリスクを減らすことに寄与できたのかもしれない。それも含めて間違った選択をしていなかったのかという疑問は常に残るが、今こうして無事で家にいることができるという事に感謝をしなければいけないと強く感じると共に、日常のルーティーンのルートから外れたところで災害にあったときの想定を普段あまりにもできていないことや、たとえ想定していても様々な要素が絡んでそのシュミュレーション通りにすらこなせないであろう事を実感した。
今何が出来るかは分からないが、今ここで生きていることを十分に活かして今後をつくっていかなくてはとぼんやりと考えている。
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