思えば、残り時間あと二時間を切った今から自分の総括をしてももう遅いとはおもうけれども。それでも、ちょっとだけ。
2011年。
年のはじめからいろいろなことが本当によく変化し続けた一年だった。
身の回りの環境は大きく変わり、精神的になによりも大きな支えを得た。
2月に大叔母が亡くなった。とても優しく、誰かのために何かをすることが大変好きだった人だった。思えば僕の趣味や思考の一部は確実に彼女の影響も受けていたのかもしれない。
3月頭には初めて香港に上陸した。広東語が喋れればなと強く感じたが、北京語や英語をとびとびしながら行うコミュニケーションもまた新鮮で、あった。去年の中国の時にも感じたのだけど、北京語を第一言語としない人との北京語での会話は、ネイティブとの会話に比べて幾分か楽だなと。どこか、英語圏の小さい子供と接するときに感じるプリミティブなコミュニケーションの感覚に近いのかもしれないけど。
東日本大震災があり、その直後から僕の住む東京も否応なくその影響を帯びていった。到底今まで実際に起きると想像すらしていなかった事象の連続は、それまでの自分が積み上げてきた価値観に銃創のように穴をあけ、そこを埋めようとする中で多くのことと新しく、もしくは再び向きあう事になった。
一つ学年が上がり、デザインスタジオで比較的全力で課題に臨む経験が出来たのもまた、大きな財産にはなったのだろう。
夏に、高校時代からゆっくりとプランニングをしてたヨーロッパへの旅行をする。これまで家族でしか行ったことのなかったヨーロッパも、文字通り自分たちで走ればまた全然違う側面をのぞかせてくれた。都市計画好きになってて、建築史ちょっとでもやっててよかった。
夏が終わりに向かうにつれ、喜びながら、怯えながら、想定していた将来の意外な近さと、厳しさを強く感じながら秋へと向かう。
ワダヨコでの活動を本格的に始め、右も左もわからない状態ながら色々とさせてもらう。
来年からはよりやるべきことがクリアに見えてきているだけに、頑張らねば。
いろいろな人に色々な機会をもらいながら、いろいろなことに手を出すことが出来た、恵まれた一年だったのだろう。
色々な僕に直接的な関わりのある事象、そうでもない事象がたくさん起きてきた一年であった。そのスピードや勢いに流されないように必死にばしゃばしゃやっている一年ではあったが、来年はもっともっと主体的に先へ先へと進めていけたらとおもう。いろいろなことを大切にしながら。
支えてくれた人々と、2011年という一年にこの場でも感謝を。
来年からもどうかよろしくお願いいたします。
2011年12月16日金曜日
余呉へ伝奇を求めて
少し前のことだけれども、忘れないうちに書いていこう。
今年の夏、日本建築史演習という、実際の日本建築史上重要な建築物を先生と回る授業を受講した。
集合は奈良であったため、どうやって行くことも出来たが、どうせならバスではない行き方をしたいと期間ギリギリであった青春18きっぷを使って行くことにした。朝早く家を出るとだいぶ時間に余裕が出てしまうので、せっかくだったら今まで言ったことのない場所に寄り道してみようと考え、久しぶりに伝奇をテーマにした散歩をしてみようと余呉に行くことにした。
民話とかが好きな人だとここでピンとくると思うかもしれないが、余呉は三保の松原、天橋立と並ぶ天女伝説で有名な地で、昨年の居住単位の課題で民間伝承に興味を強く持って(課題のアプローチとしてはあんまりにもお粗末ではあった)以降、一度訪れてみたいと思っていた地であった。
米原から新快速でしばらく行くと余呉の駅につく。写真の通り、小さな商店が少しある以外は駅のまわりにはあまり集落と言える感じのものもなく、静かな感じてある。
のどかな田んぼが続く風景の中にそれほど大きくない湖が忽然と現れる。山に囲まれた地形上、湖には霧が立ち込めやすく、伝奇が生まれた場所といわれればすんなりと納得はできてしまうほどにどこか幻想的な印象も与えている。
湖のほとりに天女が羽衣を掛けたという伝承の残る柳があった。丹後のものは物語の設定は少し違うけど、三保の松原の方は確か松に羽衣を掛けていたので、そこは相違点なのかもしれない。
ふらふらと歩いていると天女の像やいろいろなものがあったが、ふと僕の目を捕らえたのはすっと田んぼに降り、優雅に翼を広げる鷺の姿であった。
なんとなくだけれども、その優美な姿に異界からの女性の姿を重ねたのかもしれないと思ってしまう。
山と湖に囲まれるように佇む集落。
あたりを巡り、目星をつけていたビジターセンターまで行くが、どちらかと言うと余呉湖での釣りを楽しむための施設であったようで、駅近くの余呉湖観光館まで戻る。私がついた頃はちょうど日も傾き変えた夕方で、閉まりかけの中をお願いして簡単に資料を見せてもらう。おいてある資料は伝奇全体を大まかに紹介しつつ観光案内をしているようなものが多く、これからの散歩のために地図を一部いただく。
余呉の羽衣伝説には他には見られない面白い特徴がある。
天女が降りてきて水浴びをし、それを覗き見ていた男がその隙に天女の脱いであった羽衣を隠してしまい、その後そのまま天女が男の妻となり子をなし、天に帰っていくという大筋は極めてよくあるものと同じなのではあるが、余呉のものではその男と天女の子が旅中の和尚に見出され、都に行き、後の菅原道真になるというなんともドラマティックな展開を持っているのである。
もらった地図を参考に、幼き日の菅原道真が天に帰った母を思い、その上で泣いたとされる夜泣き石という石を見に歩いて行ってみようと考えた。
いつの間にか夕日に包まれて山吹色になる稲穂を見ながら、あぜ道を歩く。すると、先程観光館に入るときにすれ違い、挨拶をしたおじいさんに追いつく形で再会してしまった。またお会いしましたといった具合に少しばかり会話をしていると、「羽衣伝説をしっているかい?」とおじいさんの方から話を振っていただいた。おもわずうれしくなり、余呉に来た経緯などを話すと、「それならうちにいいものがあるからきなさい」といった具合に近くに止めてあった軽トラに乗せてもらい、ご好意に甘える形で集落の中にあるおじいさんの自宅へ連れていってもらうことになった。
話をしていると、どうやらその方の家は代々余呉に住んでおられて、その方も木之本や余呉で小中学校の先生を長年努められ、余呉町の教育長にまでなられた方ということでだった。そして、その仕事の傍らで余呉の持つ伝承を研究し、未来へ遺そうとしているというとのことであった。
羽衣伝説と渡来人と近くの神社の関わり、白鳥の飛来コースなど様々な話をしていただき、最後には日も殆ど落ちかけたころに夜泣石などを軽トラで案内していただき、最後にはお勧めの食堂まで連れて行っていただいた。しまいにはその方の著作を頂いてしまうなど、非常に良くしていただいてしまい、ただただ恐縮であった。
食事を終え、すっかり暮れた湖沿いの道を歩くと、西の方に浮かび上がる山の影と、湖の水面にただよう集落の明かりがただただ幻想的で、どこかぴりりと背中を刺激されるような鋭い美しさを持っていた。
消雪パイプもしっかり整備されている程には雪深い地でもあるそうで、冬にはこのあたりも雪で覆われてしまうのだという。
いつかまた、ゆっくりと何日もかけてめぐってみたいと心から思うとても魅力的な土地だった。
今年の夏、日本建築史演習という、実際の日本建築史上重要な建築物を先生と回る授業を受講した。
集合は奈良であったため、どうやって行くことも出来たが、どうせならバスではない行き方をしたいと期間ギリギリであった青春18きっぷを使って行くことにした。朝早く家を出るとだいぶ時間に余裕が出てしまうので、せっかくだったら今まで言ったことのない場所に寄り道してみようと考え、久しぶりに伝奇をテーマにした散歩をしてみようと余呉に行くことにした。
民話とかが好きな人だとここでピンとくると思うかもしれないが、余呉は三保の松原、天橋立と並ぶ天女伝説で有名な地で、昨年の居住単位の課題で民間伝承に興味を強く持って(課題のアプローチとしてはあんまりにもお粗末ではあった)以降、一度訪れてみたいと思っていた地であった。
米原から新快速でしばらく行くと余呉の駅につく。写真の通り、小さな商店が少しある以外は駅のまわりにはあまり集落と言える感じのものもなく、静かな感じてある。
のどかな田んぼが続く風景の中にそれほど大きくない湖が忽然と現れる。山に囲まれた地形上、湖には霧が立ち込めやすく、伝奇が生まれた場所といわれればすんなりと納得はできてしまうほどにどこか幻想的な印象も与えている。
湖のほとりに天女が羽衣を掛けたという伝承の残る柳があった。丹後のものは物語の設定は少し違うけど、三保の松原の方は確か松に羽衣を掛けていたので、そこは相違点なのかもしれない。
ふらふらと歩いていると天女の像やいろいろなものがあったが、ふと僕の目を捕らえたのはすっと田んぼに降り、優雅に翼を広げる鷺の姿であった。
なんとなくだけれども、その優美な姿に異界からの女性の姿を重ねたのかもしれないと思ってしまう。
山と湖に囲まれるように佇む集落。
あたりを巡り、目星をつけていたビジターセンターまで行くが、どちらかと言うと余呉湖での釣りを楽しむための施設であったようで、駅近くの余呉湖観光館まで戻る。私がついた頃はちょうど日も傾き変えた夕方で、閉まりかけの中をお願いして簡単に資料を見せてもらう。おいてある資料は伝奇全体を大まかに紹介しつつ観光案内をしているようなものが多く、これからの散歩のために地図を一部いただく。
余呉の羽衣伝説には他には見られない面白い特徴がある。
天女が降りてきて水浴びをし、それを覗き見ていた男がその隙に天女の脱いであった羽衣を隠してしまい、その後そのまま天女が男の妻となり子をなし、天に帰っていくという大筋は極めてよくあるものと同じなのではあるが、余呉のものではその男と天女の子が旅中の和尚に見出され、都に行き、後の菅原道真になるというなんともドラマティックな展開を持っているのである。
もらった地図を参考に、幼き日の菅原道真が天に帰った母を思い、その上で泣いたとされる夜泣き石という石を見に歩いて行ってみようと考えた。
いつの間にか夕日に包まれて山吹色になる稲穂を見ながら、あぜ道を歩く。すると、先程観光館に入るときにすれ違い、挨拶をしたおじいさんに追いつく形で再会してしまった。またお会いしましたといった具合に少しばかり会話をしていると、「羽衣伝説をしっているかい?」とおじいさんの方から話を振っていただいた。おもわずうれしくなり、余呉に来た経緯などを話すと、「それならうちにいいものがあるからきなさい」といった具合に近くに止めてあった軽トラに乗せてもらい、ご好意に甘える形で集落の中にあるおじいさんの自宅へ連れていってもらうことになった。
話をしていると、どうやらその方の家は代々余呉に住んでおられて、その方も木之本や余呉で小中学校の先生を長年努められ、余呉町の教育長にまでなられた方ということでだった。そして、その仕事の傍らで余呉の持つ伝承を研究し、未来へ遺そうとしているというとのことであった。
羽衣伝説と渡来人と近くの神社の関わり、白鳥の飛来コースなど様々な話をしていただき、最後には日も殆ど落ちかけたころに夜泣石などを軽トラで案内していただき、最後にはお勧めの食堂まで連れて行っていただいた。しまいにはその方の著作を頂いてしまうなど、非常に良くしていただいてしまい、ただただ恐縮であった。
食事を終え、すっかり暮れた湖沿いの道を歩くと、西の方に浮かび上がる山の影と、湖の水面にただよう集落の明かりがただただ幻想的で、どこかぴりりと背中を刺激されるような鋭い美しさを持っていた。
消雪パイプもしっかり整備されている程には雪深い地でもあるそうで、冬にはこのあたりも雪で覆われてしまうのだという。
いつかまた、ゆっくりと何日もかけてめぐってみたいと心から思うとても魅力的な土地だった。
登録:
投稿 (Atom)