2012年10月19日金曜日

雲南旅行記 Day4 麗江

移動の疲れと、山の疲れがどっと出たせいか、雨のせいか、昼前まで部屋でだらだらと過ごす。

今日は束河古鎮へ行く事にした。
古城の入り口からタクシーに乗り、古鎮の入り口まで。15元ぐらいで行ってくれるとのこと。メーターも回ってはいたけれどもメーターよりも安い金額の言い値だった。中国の田舎だとわりとメーターよりも相場を重視してそうな印象。



店先で売っている食べ物。見た目や揚げる音は美味しそうだけど、油の匂いがヤバイ。これは確実にヤバイやつだ。日本人の温室育ちな胃には無理です。






古鎮の中にはお店や宿の他にもチベット寺院があったりと見所は多い。
麗江や束河古鎮自体が茶馬古道のルート上にあり、チベットとの交易ルートとして栄えた歴史もあってか、ところどころにチベットとのつながりを示すものが多い。



犬が多いのも非常によい。どの犬も人懐っこく、いたるところで好き勝手に昼寝をしているのがとてもかわいい。




古鎮の中は結婚写真の格好の撮影スポットとなっているらしく、いたるところに写真屋さんがある。それにしても、この写真のセンス。日本ではない。。。




麗江同様に道という道に水路が張り巡らされていて、時にはこんなかんじに利用されていたり。なんだかカラフルで素敵。




三眼井実用中。

このあと、雲南名物の粑粑を屋台から買って食べた。甘いのかしょっぱいのかと聞かれて甘いのを頼んだらピーナッツ系の味のものが来た。想像してたふわふわな感じのものとは違いマッシブなデニッシュのような感じ。決して美味しくないわけではないのだけれど、ちょっと量が多すぎる、そして、クドすぎた。。。




中は結構お店が多く密度が高いようにも感じられた古鎮も、端まで来ると大分のどかな感じになってくる。建物と建物の間の路地や、道、などからこの外れのまちなみが比較的昔の姿をそのままとどめているのではないかと思わせる。




外れの路地を一歩入れば少し寂れてどこか贅沢な宿が連なる風景が。

そんなこんなでひと通り古鎮の中をぶらついたので古城へ戻ることに。
タクシーを捕まえようとしたら一緒に古城に戻るという女の人がいたのでシェアをすることに。
深センから来たこと、彼女もまた僕らと同じく明日大里に向かうということ、上司が日本人なのでちょっとだけ日本語が分かるということなどを話した。
古城前にタクシーで着き、その人と話しながら古城のゲートに向かっていたら、昨日玉龍雪山であった女の子たち数人とばったり。「友達?」「いや、タクシーに一緒に乗った人!」程度の会話しかしなかったけど、奇遇なものだ。小さい町とはいえ、外国人だから目立ちやすいとはいえ、ピンポイントで会うとは。


古城内に戻り、散歩をする。

古城内はクルマは基本入れない。なので、どのようにインフラを回しているのか疑問だったが、散歩の途中に幾つか面白いものを見た。



一つはゴミ収集車。なるほど、これ一台ならぎりぎり走れる通りが多そうだ。いろんなゴミをいちいち分類なんかせずに一気に突っ込んでく感じがわりとワイルド。



もう一つが消防署。小型のトラックサイズの消防車と、バギータイプの消防車が数台。水路が街中に張り巡らされているのでポンプを積んだバギー程度の消防車でもきっと十分なんだろうなとおもわれる。


休憩に入ったillyのコーヒーショップの値段がわりと(かなり)高かった。わりと外資系は容赦しない値段設定を付けてくるし、それに平然と入るお金持ちも多いのも今の中国らしいところか。




歩いて古城の縁の山を登ると景色の良いポイントが。おみやげ屋特製の展望台も盛況。




瓦の海とも表現される麗江。なかなか独特の景観。




立体的に瓦屋根が連なっていく間を抜けていく通路。尾道とかが好きな人にはたまらないのではないかと思う。




夕食を食べても満ち足りないお腹は屋台で満たそう!ということで夜の屋台が集まっているエリアに。いろんな料理ができたてで食べられるここは、屋台にありがちな不衛生な感じもないしとても良かった。

そんなこんなで4日目の夜も更けていった。
ゆったりと過ごすはずがたくさん歩いた一日だった。

2012年9月29日土曜日

雲南旅行記 day3 麗江一日目

まだ薄暗い中夜行列車は麗江に近づく。車窓からは薄くもやのかかった山々が見える。



同席の大学生たちにお別れをした後駅に降り立つ。できたばかりの駅はいかにも中国の新しい駅といった風情。どうやら麗江に至る鉄路も2009年にできたばかりのものなのだとか。




麗江は駅が市街と離れているのでタクシーで中心まで向かう。駅から市街まではのどかな風景が広がる。確かに田舎の小さな都市に来ているのだという実感が湧いてくる。

タクシーの車窓からは山の輪郭が綺麗に見える。




古城(中国の旧市街地はこう呼ばれることが多いそうだ)の入り口でタクシーを降り、本日の宿であるユースへ向かう。ユースも古城のに溶け込んだ造り。
チェックインをしようとしたら二人用部屋がいっぱいのようなのでしばらくロビーで待つ。




しばらくのゴタゴタの後(前に泊まっていた香港の若者が宿泊料でゴネてたり、ツアーに参加しないかと熱心に勧誘されたり)街に歩き出す。朝のもやのかかった景色とはまた別の鮮やかな色味の麗江古城がそこにはあった。

この日は玉龍雪山に向かおうということでガイドブックにあった「7路」バスに乗るために新市街地のバスターミナルまで歩く。「7路」の大きな看板と、行き先表示板を掲げたバンが止まっているのを見つけ、話を聞けば「玉龍雪山までは15元だが、満員に為らないと発車しない。急ぎなら包车(チャーター)をしてくれ」と言われた。数分待っても人が来ないので包车することに。。。

ちなみにその日の夜に先にあった人民広場まで歩いたところ中型バスのたくさん停まっている駐車場が。。。。そして、そこにも朝見た「7路」の同じ看板が。。。大きなバスのほうが本物で、僕らが最初に見つけたのは完全に偽バスでした。。。しかし、全く同じデザインの看板を用意するとは何事か。。。

してやられたことも知らず包车した中国製の越野车(野を超えゆく車→オフロードカー)で玉龍雪山へ向かう。ドライバーは途中止まって酸素ボンベのお店で酸素ボンベを買わせたりとまあ手馴れている。



何もないただただ雄大な景色の中を走っていく。ドライバー曰く「日本の車いいよね。欲しい」とのこと。僕らの中国語の発音があまり良くないこともあり、そんな簡単なやり取り以外の確実性の求められるやり取りはすべて筆談で行おうとするドライバー。ちゃんとしっかり説明してくれたりするのは非常にありがたいが、まあ、マメな人である。



一時間ぐらい走って入り口まで着き、そこからエリア内バスでロープウェイ乗り場まで行く。
ロープウェイに乗ると一気に海抜4506mの世界へ。



あいにく曇っていてなにも見えませんでしたが、空気が薄い!寒い!
せっかくなので遊歩道の端っこまで歩いて行く事にする。

途中ハルビンから来た女の子たちに絡まれ、一緒にワイワイと登る事に。
ものすごい勢いではしゃいで、苦しくなったらボンベを吸うといったパワフルっぷりには脱帽。



登った先は海抜4680m。登っただけで息が切れる。酸素ボンベ缶一つで登っていい高さではないですよ。。。





ガスが晴れてきて、少しずつ山体が見える様になった。目の前には氷河が広がる。話によると北半球で最も南にある氷河なのだとか。そして、こんな高さまでロープウェイが来ているにもかかわらず、法律で禁じられているため玉龍雪山の最高峰は未だ未踏峰なのだとか。とても不思議な山である。





山から降り、バスに乗ると次は青い湖に降ろされる。玉龍雪山から流れて来た水で青くなっているんだとか。



中国では花嫁写真の撮影が盛ん。風光明媚な場所だと必ずと言っていいほどドレスを着た女の人と、カメラを持った撮影隊が歩いている。
ドレスの下がジーンズとスニーカーなのはさすが中国。




景色を存分に堪能した後、ドライバーのお兄さんに電話をして迎えに来てもらう。景色の良い所で車を止めてもらったりしながらゆっくりと古城へ戻る。聞けば15年も運転手をしているそうだ。いい人だった。思えば結構わがままも聞いてもらったし、包车も悪くなかったかも。




古城に戻り、散歩する。建物が密集し、いたるところに水路が流れている。茶馬古道の中で発展した麗江の街は文化的に豊かな雰囲気を持っていた。




新市街のお店で夕食を食べた後、古城を散歩する。夜も昼に負けず劣らず人であふれている麗江の街。




いろいろなバーやカフェで行われているライブの音が街中のいたるところから聴こえてくる。水路では灯籠のようなものを流したりしている人の姿も多く見られた。




広場に行けば中国の夜の広場でよく見られるゲリラダンスが。
麗江は中国らしいところと、中国にはなかなかない洗練が見られた不思議な街だ。

3日目終わり。

2012年9月18日火曜日

雲南旅行記 day2 上海~昆明

二日目。
ユースで5時前という異様な早朝に目覚める。
いそいそとチェックアウトをして南京東路から2号線の始発に乗る。

ここで、China UnicomのSIMを手持ちのちびXperiaに挿してみる。そして、所定のパスワードを入れる手続きをするとSMSが帰って来た。しっかりうちの子はSIMロックフリーであることがわかった。どうやら回線はちゃんと使えているようだ。
ならばと、料金プランの選択をSMSのコード入力でやってみる。しかし、カードのアクティベーションができていないの無効だという。。参った。
そもそもなぜ慌ててそんな事をしているかというとChina Unicomの料金体系が申し込み手続きをした翌月からのプラン適応になるからなのである。今回は11日間の旅行のうち3日目から月が新しくなるので都合がいい。そんなわけでカードを買って中国でのモバイル環境を体験してやろうと踏んだのである。
どうやら読むとSIMカードのアクティベーションには最初に電話での音声指示に従う必要があるのだということ。久しぶりの中国ということもあり、まだまだ全然中国語を聞ける耳になっていない。昆明でお店があったらそこでアクティベーションをやってもらうということにしよう。
そうこうしているうちに地下鉄は虹橋へ到着。あんまり時間もないのでさっさとターミナルに上がると春秋航空の文字はない。。。インフォーメーションカウンターに聞いてみるとどうやら虹橋の第一ターミナルから出るとのこと。そして、第一ターミナルまではバスはない(後で調べたら厳密にはあるのだが、本数があまりにもなく、遅いらしい。)ので地下鉄を使えとのこと。
急いで地下まで降りて10号線に乗り、第一ターミナルへ。
第一ターミナルは2年前の時に上海航空で降りたけれども、すぐバスで出てしまったのであまり記憶にないターミナルだった。改めて見ると、第二に比べてしょぼい。。LCCとか主体なのだから仕方あるまい。

前日に食べた火鍋のせいもあり、危ない時間をトイレに費やすことで更に危なくしてしまったが、なんとか無事セキュリティも通過してボーディングできた。同行のMくんには迷惑と心配をかけた。

前日に乗った春秋航空。日本線の機材はレザーシートなのに対して、昆明線はファブリックシート。シートの形状もマシなせいか結構ラクに寝ることができた。狭いは狭いけど。
寝ている間にあっという間に北緯25度東経102度の世界へ。とても南に来たはずなのに高度があるせいかとても涼しい。



空港の壁には各自治区が出している観光広告やお茶の看板が。ここは辺境雲南の入り口なんだと強く実感させられる。

市内へ地下鉄で向かおうと空港の地下鉄駅に向かったら、なんとまだ地下鉄は開業したてで、市内まで繋がっておらず、外れの東部バスターミナルまでしか行けないとのこと。それらのことを券売機横に立っている人と話していたら市内まで行くから一緒に行こうというおじさんが現れた。ちょっと怪しいと思いつつ、券売機の人も「任せた!」と言わんばかりの態度でバトンタッチ。おじさんとちょっと距離を置きつつおじさんと話す。どこから来たのかとか、どこに行きたいのかとか、どんな予定なのかとか基本的なことを話しながら。行き先の話をしていたらなかなか単語が伝わらずどんどん周りの人が助け舟を出しに集まってくれたのは本当に恥ずかしいやら申し訳ないやら。そして、その中の誰もが英語を全く理解しないのもさすがである。上海や北京と違ってここはわりとぬくぬくとした地方都市なのかもしれない。
おじさんと話しながら市内へ向かう。どうやら息子が飛行機に乗るので見送りに空港まで出かけていたとのこと。近くに座っていたおばさんも交えていろいろと親切におすすめ観光場所をたくさん教えてくれた。なんだ、親切すぎて心配したけどとてもいい人だった。
結局おじさんは結局自分が乗るバスとは違う僕らの乗るバスの乗り場までついてきてくれた。なんという親切。何度も感謝を示しながらバスに乗り込む。落ち着いてみると圧倒的なバスと利用客や客引きの数のせいで東部バスターミナルはあまりにも混沌としてて、初めて訪れる人間には軽々と使えるものではなかった。これはたしかにおじさんの好意がなければ僕らは迷っていたかもしれない。30路バスに乗って昆明駅を目指す。しかし、このバス、出力無さすぎて坂もまともに登れない。。

そんなこんなで30分ぐらいかけて駅に着く。おじさんが「米線はうまいぞ」と言うものだからとりあえず駅の近くの食堂で米線を食べる。太くしたビーフンのような米の麺が辛いスープの中に入った感じのもの。他は中国でよくある牛肉面とそんなに変わらないかも。




中国の食堂。お店のスタッフもお客さんも警備員も渾然一体となって食事を食らう。ここは中国だ。




いかにも最近の中国の駅といった感じの昆明駅。見た目はかっこいいけど、中は例に漏れずあんまり綺麗には使われてはいない。




昆明はインフラ改造のまっただ中。道路工事も地下鉄工事もいたるところでしているものだから交通渋滞や土埃が常に舞っている。
5年前に北京に行った時、2年前に武漢や宜昌の街に行った時、それぞれそれなりに工事はしてたが、ここ昆明ではまさにピーク。ついに徐々に僕が中国の土木ペースに追いついたのかもしれない。

公園に行けば他の中国の都市以上におじいさんおばあさんが屯していて、例に漏れず麻雀やポーカーや将棋やマッサージや音楽演奏に興じている。賭け事と健康と音楽。なんと欲求に忠実。素晴らしい。





もう昆明では少なくなった古い建物が並ぶ地域。ここは看板屋さんの集まる通りらしく、昔ながらの木を使った看板から、LEDサイネージまであらゆる看板を作るお店が並んでいた。昆明の古い建築物は保存されている感じもなく、本当に古い(有り体に言うとぼろぼろ)なので、いつ壊されるてもおかしくはない感じであった。





昆明も他の都市と同じように強烈な勢いで自動車化が進んでいる。強いのは古参のワーゲンやトヨタやホンダの日本車、キャデラックやビュイック、シボレー等のGM系、そして最近急激に数を増やした中国車(ローバーの資産を買い取った南京汽車系の車などは比較的仕上げも先進国の車っぽい)など。

歩いて翠湖公園へ。



中国恒例の水書道おじさん。みんなえらく達筆。

昆明を出る前に絶対やっておきたかったことが携帯のSIMカードのアクティベーション。
とりあえず市内の大きな量販店の携帯売り場のお兄さんに泣きつく。事情を簡単に説明して、音声アクティベーションを代わりにやってもらう。感謝感謝である。多分携帯好きなんだろうなあ。僕のXperia miniを見て興味を示していた。

市内をひと通りぶらぶらして、ご飯を食べて駅へ向かう。駅へは地下鉄がなく、タクシーもやたら走っているのにどれもお客を載せているため結局バスで駅へ向かうことに。



麗江へ向かう列車に乗り込む。
この日の席は普通の3段寝台。いわゆる硬臥である。
同じコンパートメントだった麗江の大学に通う大学生と話が弾む。
こっちの拙い中国語を頑張って聞いてくれたお陰でいろいろと話すことができた。
少しだけ日本語の単語を知っていてくれていたりするとなんだか嬉しい気分になる。

いろいろと話しながら消灯の時間に。
明日起きる頃には麗江の山の中だ。

2日目終わり。

2012年9月17日月曜日

雲南旅行記 day1 茨城~上海

旅行記はつけた方がいい。

 まだ僕が中3ぐらいの時に、友だちとどこか旅行に出かけたりしたおみやげとかを持って行くと隣にすむおじいさんに、そう言われた。
 確かにそのとおりだと思い、だけれどもなかなかマメにできずに大学生ぐらいになった。思い返してみればあの時どうだっただろうと当時の旅行を思い出してみてもなかなか思い出せないことが多い。これはまずいと思い、最近はちょっとづつ行った旅行の記録はつけて、後で思い出せるように、後で別の事に気づいた時に複合的な認識が得られるようにと考えている。


 8月の終わりから9月の前半にかけて中国に行ってきた。 なにをまたこんな時期にと思われるかもしれない。おかしいもので、初めて中国に行った高校の交換留学の時も、大学2年の時も、だいたい日中関係が悪い時期だった。なので、まあ出る時点ではこんな程度だったら問題無いだろうという訳の分からない予感はあった。とは言え、小心者でもあるし、周りの人の反対もあったので成都はルートから外して上海~昆明~麗江~大理~昆明~上海と回ることにした。四川が消えたので完全に雲南旅行である。


 院試と京都旅行から間髪入れずに出発は迫る。事前に作っておいた三井住友の銀聯カードと、だいたいOKであろう人民元とパスポートと飛行機の予約番号と常備薬さえあれば最悪なんとかなるだろうということで愛用のバックパック一個に荷物は収まってしまった。寝間着を入れてみたり今までの海外で一番少ない荷物!AndroidとかのUSBチャージャーやズボンは無駄に2セット入っているのに、折り畳み傘が入っていなかったりとなかなかひどい。まあでも、今までの中国経験上、クオリティを問わなければどこでもなんでも売っているので困った時はその時だということで。 



 地味に楽しみにしていた中国LCCの春秋航空。就航当時から訳の分からない格安運賃で、一度トライしてみたいと思っていた。 しかしまあ、席が狭いこと。。。

 

 うまく寝られないくらいには席が狭い。なので、着陸前に体操をして身体をほぐすという笑 中国人は体操大好きだけど、ここで体操に出会えるとは思わなかった。体操が終わってからすぐベルト着用サインつけるあたり手馴れている。
 そうこうしているうちに上海につく。割高だと思いつつChina UnicomのSIMを空港の売店で買って、淡々と市内へ移動。前来たときは通っていなかった2号線が浦東空港まで乗り入れていたのを知らずにバスで市内まで。

どうしても火鍋が食べたかったのでユースに荷物をおいて近くの火鍋屋へ。



火鍋とこの上海サントリーが本当に合う。辛かったり油っぽかったりする味に、薄くてすっきりとした上海サントリーはわりとものすごくよく合う。
これをやらずして中国に来たとは言いたくない!!
ものは試しと銀聯カードでお会計。たらふく食べて2人で150元。前来た時よりは確実に物価が高くなって入るけど、まだ日本の金銭感覚で生きているので、むしろお得感すら。上海は物価も人々のファッションも走っている車(上海のほうが高級車多いかな)も中国の他の都市よりもずっと東京に近い気はする。
面白いけど、ワイルドさには欠ける。

明日の飛行機は朝7時過ぎに虹橋を出るので夜更かしせずに早く寝る。

一日目終わり。

2012年3月4日日曜日

メ芸行ってきた

前評判では例年より産業的なものが多いという話が多かったので、今年はいいかなとは思っていたのだけれども、去年夏にやっていたGalaxyのSpace Balloon Projectの気球の実物の会場展示があるというので今年も行ってみることにした。

確かに"大きく"産業的なものが多く、これまでみたいにメディアアート作品の会場展示はあまり多くないように思えた。
スマートフォンやHD画質でのYoutube視聴環境が普及したことでプロダクトしての"作品"に親しむ機会が増えてきたということもあるだろうし、タッチパネルと素晴らしいレスポンススピードを持ったデバイスや、DTM、HD画質で幅広い動画静止画表現を可能にするデジタル一眼、アンドロイドやiOSという容易にソフトを開発できるプラットフォーム作品を作るフィールドなどの普及がより"メディアアート的"なものを世界に広く拡散させる事に大きく寄与したということは言うまでもないだろう。

一つ転換期にはあるんだとは外野ながらに思う。


さて、Space Balloon Project。気球は実物を見ると、思った以上にワンオフ感たっぷりのあたたかいものであった。気球と本体のリンケージとか、通信モジュールのキャビネットとか、とてもロボコン的な楽しさを感じて面白かった。

会場では当時の映像をダイジェストにしたものを、中継中に使用していた音源をバックに流していた。
バックの音源はコトリンゴや坂本美雨、高木正勝、口ロロといったいかにもなメンバーが担当していた。



久しぶりに見ると懐かしくなり、そういえばこんな曲流れていたなといった具合に口ロロの曲を少し聴いて見ることに。
それまでラジオで流れてくるのを聴いたりする程度で、あんまりしっかりと口ロロの曲を聞いたことはなかったのだが、この機会にちょっとづつ聴いて見ることにした。

いとうせいこうは今でもこんなことやるんだと思うような曲や、純粋にかっこいいなと思う曲などなかなかに聴きごたえはあるグループである。そして、時々人を食うことなくするっと後ろに回りこんでくる感じのトラックや歌詞が非常にかっこいい。

Space Balloon Projectで使われていた"いつかどこかで"というタイトルの曲は、大量の人のなんてことないようなリリックを既存の曲のトラックに貼っつけてもう一度作りなおした構成の曲で、リアルタイムで見ていたときは後ろの風景と、ギャラクシーの画面に映ったツイッターのポストを映すというスタイルのため、この曲の雰囲気自体が人々のなんてことのない日常をさらっと風呂敷で包むような"大きな"曲のたぐいだと思っていた。
しかし、口ロロの他の曲を元のトラック含めひと通り聴いたあとでこの曲を改めて聴くと、日常が乗っかっている不安定であったり不条理であったりするような基盤から組み立てていっている曲のようにも感じられる。

なんとなくゾッとしたのは、5分過ぎからの「常磐線いわき発富岡行きの電車を寝過ごす」というような一見他愛のないような雰囲気の部分。この電車はおそらく去年の震災前はいわきからの下り最終列車だった列車で、運転区間の大半が現在の福島第一原発事故の警戒区域に当たる地域に入っている。あの時期に発表された曲であえて一瞬だけこういうフレーズを混ぜ込むのはおそらくなんの意図もないとは考えられない。
このフレーズを聴いたあとに他のフレーズを聴いてみると、そこに放り込まれている日常がたしかになんてことのない日常が恐ろしく不安定で、手探りなものにも聞こえてくる。
おそらく、そこにあったなんでもない日常が切断されるともすれば不条理な事態が、当たり前のことで決して遠い世界の話ではないのだろうという確かな感覚だけは震災から一年を経てもそれなりにしっかりと残っている。
その感覚を自分は、社会は、どのくらいしたら失ってしまうものなのか。
将来的にやりたいこととも常にリンクし続ける問題だけに、簡単には答えはでないだろう。


来週でちょうど震災から一周年。

2012年2月6日月曜日

ゲートブリッジへ

東京ゲートブリッジという橋が今度完成する。
若洲から中央防波堤へとつながる全長3km近い大きな橋で、下を大型の貨物船が通り、上を羽田空港に進入する航空機が通るという厳しい要件のために、独特でダイナミックなルックスのトラスを組んだ橋である。
この橋が開通すると、京浜島→城南島→中央防波堤→若洲→新木場という海ルートでの湾岸道路バイパスが完成する事になり、東京の物流は大きく変化するとも思われる。

詳しくは、こちら。
東京ゲートブリッジ via Wikipedia


さて、そんなゲートブリッジを自転車で渡れるイベントが開催されるという案内を去年の年末に見つけて、即参加申し込みをした。
道路供用が開始されてしまえば、レインボーブリッジと同じく、歩道部以外への進入はできなくなってしまうため、これがゲートブリッジを自転車で渡る最初で最後の機会になるかもしれないと思ったのだ。





スタート前のワクワク感




スタート!




カメラもたくさん入っていた。




ダイナミックなトラスの中を走っていく。




クルマやバスでしか入ったことのない中央防波堤へ上陸!道が広い!




明治乳業さんがスポンサーなので、VAAMが給水所で飲み放題。余っていたらしく、しきりにおかわりを勧められるほど。




ストレート後、一気に空へと上っていく。実にダイナミックな道路。




ここから見る東京湾岸の景色もとても良いのですが、今回はあまり撮れず。でも、とても思い出深い楽しいイベントでした。

2011年12月31日土曜日

2011年

思えば、残り時間あと二時間を切った今から自分の総括をしてももう遅いとはおもうけれども。それでも、ちょっとだけ。




2011年。

年のはじめからいろいろなことが本当によく変化し続けた一年だった。
身の回りの環境は大きく変わり、精神的になによりも大きな支えを得た。

2月に大叔母が亡くなった。とても優しく、誰かのために何かをすることが大変好きだった人だった。思えば僕の趣味や思考の一部は確実に彼女の影響も受けていたのかもしれない。

3月頭には初めて香港に上陸した。広東語が喋れればなと強く感じたが、北京語や英語をとびとびしながら行うコミュニケーションもまた新鮮で、あった。去年の中国の時にも感じたのだけど、北京語を第一言語としない人との北京語での会話は、ネイティブとの会話に比べて幾分か楽だなと。どこか、英語圏の小さい子供と接するときに感じるプリミティブなコミュニケーションの感覚に近いのかもしれないけど。
東日本大震災があり、その直後から僕の住む東京も否応なくその影響を帯びていった。到底今まで実際に起きると想像すらしていなかった事象の連続は、それまでの自分が積み上げてきた価値観に銃創のように穴をあけ、そこを埋めようとする中で多くのことと新しく、もしくは再び向きあう事になった。

一つ学年が上がり、デザインスタジオで比較的全力で課題に臨む経験が出来たのもまた、大きな財産にはなったのだろう。

夏に、高校時代からゆっくりとプランニングをしてたヨーロッパへの旅行をする。これまで家族でしか行ったことのなかったヨーロッパも、文字通り自分たちで走ればまた全然違う側面をのぞかせてくれた。都市計画好きになってて、建築史ちょっとでもやっててよかった。
夏が終わりに向かうにつれ、喜びながら、怯えながら、想定していた将来の意外な近さと、厳しさを強く感じながら秋へと向かう。

ワダヨコでの活動を本格的に始め、右も左もわからない状態ながら色々とさせてもらう。
来年からはよりやるべきことがクリアに見えてきているだけに、頑張らねば。


いろいろな人に色々な機会をもらいながら、いろいろなことに手を出すことが出来た、恵まれた一年だったのだろう。

色々な僕に直接的な関わりのある事象、そうでもない事象がたくさん起きてきた一年であった。そのスピードや勢いに流されないように必死にばしゃばしゃやっている一年ではあったが、来年はもっともっと主体的に先へ先へと進めていけたらとおもう。いろいろなことを大切にしながら。


支えてくれた人々と、2011年という一年にこの場でも感謝を。
来年からもどうかよろしくお願いいたします。

2011年12月16日金曜日

余呉へ伝奇を求めて

少し前のことだけれども、忘れないうちに書いていこう。




今年の夏、日本建築史演習という、実際の日本建築史上重要な建築物を先生と回る授業を受講した。
集合は奈良であったため、どうやって行くことも出来たが、どうせならバスではない行き方をしたいと期間ギリギリであった青春18きっぷを使って行くことにした。朝早く家を出るとだいぶ時間に余裕が出てしまうので、せっかくだったら今まで言ったことのない場所に寄り道してみようと考え、久しぶりに伝奇をテーマにした散歩をしてみようと余呉に行くことにした。


民話とかが好きな人だとここでピンとくると思うかもしれないが、余呉は三保の松原、天橋立と並ぶ天女伝説で有名な地で、昨年の居住単位の課題で民間伝承に興味を強く持って(課題のアプローチとしてはあんまりにもお粗末ではあった)以降、一度訪れてみたいと思っていた地であった。



米原から新快速でしばらく行くと余呉の駅につく。写真の通り、小さな商店が少しある以外は駅のまわりにはあまり集落と言える感じのものもなく、静かな感じてある。



のどかな田んぼが続く風景の中にそれほど大きくない湖が忽然と現れる。山に囲まれた地形上、湖には霧が立ち込めやすく、伝奇が生まれた場所といわれればすんなりと納得はできてしまうほどにどこか幻想的な印象も与えている。




湖のほとりに天女が羽衣を掛けたという伝承の残る柳があった。丹後のものは物語の設定は少し違うけど、三保の松原の方は確か松に羽衣を掛けていたので、そこは相違点なのかもしれない。




ふらふらと歩いていると天女の像やいろいろなものがあったが、ふと僕の目を捕らえたのはすっと田んぼに降り、優雅に翼を広げる鷺の姿であった。
なんとなくだけれども、その優美な姿に異界からの女性の姿を重ねたのかもしれないと思ってしまう。




山と湖に囲まれるように佇む集落。

あたりを巡り、目星をつけていたビジターセンターまで行くが、どちらかと言うと余呉湖での釣りを楽しむための施設であったようで、駅近くの余呉湖観光館まで戻る。私がついた頃はちょうど日も傾き変えた夕方で、閉まりかけの中をお願いして簡単に資料を見せてもらう。おいてある資料は伝奇全体を大まかに紹介しつつ観光案内をしているようなものが多く、これからの散歩のために地図を一部いただく。

余呉の羽衣伝説には他には見られない面白い特徴がある。
天女が降りてきて水浴びをし、それを覗き見ていた男がその隙に天女の脱いであった羽衣を隠してしまい、その後そのまま天女が男の妻となり子をなし、天に帰っていくという大筋は極めてよくあるものと同じなのではあるが、余呉のものではその男と天女の子が旅中の和尚に見出され、都に行き、後の菅原道真になるというなんともドラマティックな展開を持っているのである。

もらった地図を参考に、幼き日の菅原道真が天に帰った母を思い、その上で泣いたとされる夜泣き石という石を見に歩いて行ってみようと考えた。

いつの間にか夕日に包まれて山吹色になる稲穂を見ながら、あぜ道を歩く。すると、先程観光館に入るときにすれ違い、挨拶をしたおじいさんに追いつく形で再会してしまった。またお会いしましたといった具合に少しばかり会話をしていると、「羽衣伝説をしっているかい?」とおじいさんの方から話を振っていただいた。おもわずうれしくなり、余呉に来た経緯などを話すと、「それならうちにいいものがあるからきなさい」といった具合に近くに止めてあった軽トラに乗せてもらい、ご好意に甘える形で集落の中にあるおじいさんの自宅へ連れていってもらうことになった。
話をしていると、どうやらその方の家は代々余呉に住んでおられて、その方も木之本や余呉で小中学校の先生を長年努められ、余呉町の教育長にまでなられた方ということでだった。そして、その仕事の傍らで余呉の持つ伝承を研究し、未来へ遺そうとしているというとのことであった。
羽衣伝説と渡来人と近くの神社の関わり、白鳥の飛来コースなど様々な話をしていただき、最後には日も殆ど落ちかけたころに夜泣石などを軽トラで案内していただき、最後にはお勧めの食堂まで連れて行っていただいた。しまいにはその方の著作を頂いてしまうなど、非常に良くしていただいてしまい、ただただ恐縮であった。

食事を終え、すっかり暮れた湖沿いの道を歩くと、西の方に浮かび上がる山の影と、湖の水面にただよう集落の明かりがただただ幻想的で、どこかぴりりと背中を刺激されるような鋭い美しさを持っていた。
消雪パイプもしっかり整備されている程には雪深い地でもあるそうで、冬にはこのあたりも雪で覆われてしまうのだという。
いつかまた、ゆっくりと何日もかけてめぐってみたいと心から思うとても魅力的な土地だった。

2011年11月2日水曜日

PNDと情報公開

GARMINが新しいPNDを日本国内で出すらしい。

【GARMIN nuvi 3770V】VICS対応・薄さ約9ミリ・マルチタッチ…生まれ変わった新世代PND | レスポンス (テクノロジー、カーナビ/カーオーディオ新製品のニュース) 

今までになくコンパクトでシンプルそうな外観と、ちゃんと準天頂衛星みちびきの補正信号を受信できる最新の測位性能、まだ国産据え置き上級機でも採用の少ないマルチタッチなどカーナビとしての必要な機能を大体揃えている。

実際この夏、ヨーロッパでGARMINのナビをたっぷり使う機会に恵まれて、その実力には大いに助けられた。国をまたいでもしっかりとデータベースは対応し、測位性能もダッシュボードにポンと置いているだけなのに問題なく、住所入力はどんな所でも対応、速度規制や交通規制の情報を逐一表示し、交差点ではしっかりと拡大図を示し、スピードカメラのあるエリアではしっかりと注意を促すといった具合に走ることに必要な情報に関しては非常にかゆいところに手が届く仕様であった。

去年我が家の新車にカロッツェリアの楽ナビの上位機種を載せた。ミュージックサーバーやDVD再生機能を始めとしたAV機能や3Dビューなどとにかくてんこ盛りな仕様であったが、スマートな使い方を覚えるまでそれなりの時間がかかったようにも感じられた。基本的なナビの性能自体は直接比較をしたわけではないが、少なくともGARMINに比べて家の楽ナビのナビゲーション能力がそれほど優れているとは思えない。優れてるとしてもそれはナビ自体の性能ではなく、VICSビーコンからの情報によるリルート処理の有無ぐらいだろう。直感的に使いやすいか否かの問題のほうがはるかにこの手のデバイスでは重要なように感じられた。
こういった性能の差を見るに、車上荒しの多い欧州で据え置きは持ち出しの容易なPNDに比べて不利な事は大いに関係しているとはいえ、そもそもPNDに比べてずっと高価な据え置きナビを購入する必要そのものがないということが共通認識としてあるであろうことから、欧州ではPNDが市場の主流になっているのだとも考えられる。日本でのHDDナビの標準的な価格帯は10万円台なのに対して、GARMINのPNDはむこうでは100から200ユーロで買えるのだから。オーディオもきょうびHDDサーバーなんて車内にわざわざ置かなくてもみんなiPodなどのDAPをAUXなりドックなりでオーディオに直付けして使う訳だからいよいよ据え置きのメリットはなくなってくるのだろう。事実、欧州の自動車雑誌などのスペック表には多くの場合iPodと連携可能なカーオーディオを装備しているかどうかの項目がある。これらのことからも国内のカーナビという分野は相当に孤立して競争力のないプロダクトを惰性で作っているのではないかという懸念を抱かざるをえない。

近年はVICSだけでなく、モバイルネットワーク回線を利用したスマートループなどのサービスも定着しつつあり、NAVITIMEのネットワークナビなどクラウド前提のナビゲーションシステムも国内で登場しつつある。実際スマートループは東日本大震災の時にホンダと共同でスマートループ搭載車の通行実績をGoogleマップ上に表示するシステムを公開したりと、それが従来の渋滞回避のためだけのシステムではない事を提示し始めているが、それと平行で進めているスマートフォンナビの開発などによりそもそもこれまで進化をして来なかった据え置きナビ自体の存在価値を自ら壊し始めているともいえる。実際スマートフォンの普及によって一番影響を受ける業界の一つがカーナビであるとは前から言われてきたわけではあるし、PNDのような安くて代替が容易なデバイスならともかく、据え置きナビのような高価で交換も難しいものは相当早く存在を疑問視されても仕方ないとは思える。


二年ぐらい前からグーグルは海外の都市で渋滞情報をマップに表示するようになっている。おそらく都市の警察や道路行政的な部署がグーグルと連携して、彼らに渋滞情報を提供しているのだろう。スマートフォンでルート検索をかけるとこの情報を考慮して結果を出してくれる。東京も渋滞センサーやTシステムのような渋滞を把握する設備を高密度で持っているはずであり、それらの情報をもう少しそういった民間企業と共に活用していけば良いのではないかとは常に思う。もちろん、そういった情報をすべて公開することは危機管理の観点から見れば間違いなく危険ではあると思うが、だからといって全て封鎖するのではなく、公開する情報の範囲を自分たちで積極的に策定し、危機管理自体をもう一度自分たちの手の中に収めることが結果として危機管理体制を能動的に作り上げる一つの有効な方法になるのではないかと常に思う。
とかく、最近東京電力やオリンパスが説明責任を果たしていないとして批判の槍玉にあげられることが多いが、開け広げる範囲の設定がきちんと上手にハンドリングできていないということ、そしてそのハンドリングのマズさを全部非公開にして隠すことが最も批判の対象にはなっていると思う。そういった意味では道路行政のそういった情報公開・共有へのスタンスにもそのハンドリングのマズさは見えているような気がしてならない。


今後ナビゲーションシステム自体がスマートループのような集合知システムになるのか、綿密なトップダウン情報を元に判断を行うシステムになるのか、もしくはその双方を統合して各ナビゲーションシステム同士が連携してトラフィックを分散させるなどの制御を行うようになるのかは分からないけれども、ここ10数年で多くの乗用車のインパネのインテリアデザイン据え置きナビ用に変えるにまで至ったカーナビのスタイルも終わりが近いように感じてしまうのは私だけではないはずである。

2011年10月29日土曜日

再会

大分長い間投稿をして来なかったので、久しぶりに更新をしたくなった。

そろそろなにか日々考えたことを整理して振り返りつつ歩くこともまた大切なのかもしれないと思い、ちょっとづつ書いていこうということにした。

携帯電話を新しくした。
これまで6年半にわたってドコモの携帯電話を使っていたが、去年の秋にXperiaを導入して以来、そのパケット料金の高さと、スマートフォンの普及に起因するであろう回線速度低下に悩まされ続けてきた。
第二回線にAUがあるのでとりあえずいざというときの電波の心配はしなくていいということもあり、E-mobileに乗り換えることにした。

機種はもちろんEricsson miniことS51SE!これと、通話定額オプションがタダなことが今回の乗り換えを大きく後押しした。

なんたってソニエリのゲテモノマシンは大好きですからね。
これが歴代の相棒達。

左からPremini-S、SO902iwp+、SO-01B、Ericsson mini。
ソニエリのちびさんたちへの愛情なら負ける気がしない。

つい先日、ソニエリがソニーの完全子会社になるというニュースがあった。この携帯が最後のソニエリ機になるのではないか思うと少し寂しくもある。



ちょっと使った印象を。

基本的にはインターフェースはAndroidユーザーなら自然と受け入れられる感じのもの。四隅のショートカットはいかにもソニエリらしいインターフェースで、僕はとても良いと思う。
確かに他のスマートフォンを持っている人は使用中に落としてしまうことも十分考えられるほど小さい。その点は僕にとってはまさに求めていたPremini以来の感触ではあるのだけれども、正直合わない人にはまったく合わないだろうなと。。
動作は快速。arc、acroと同じプロセッサを積んでいるせいか今までの無印ペリアとは隔世の感すら。

回線速度は今までFOMA回線で使ってきた人間にとってはまず文句のないものと言える。都心の電車を乗り継いで帰っただけなので正直通信エリアを確かめる事はできているとは言えないが、今までとてもストレスに感じられたターミナルや満員電車内での通信速度には驚かされた。

Pocket wi-fiはやはりそれなりのスピードだけれども、ブラウジングやドキュメント作成には不満がない程度の安定性と速度。

とりあえず夜に受け取ってきて最初に触ってみた感じがこんなところか。。。


何よりも感じるのは一番最初に使った携帯電話であるPremini-Sが帰ってきたようにすら感じてしまう、愛らしい相棒だということだろうか。